掃き溜め。

強い感情が募ってどうしようもなくなったとき、ここに吐き出すことにした。ふう。

セックスした途端に友達ですら無くなるなんて全部クソ。これは世界が悪い。

なんで書くのかってそれは誰にも言えない相談できないぐちゃぐちゃが自分の中にあって日常に支障きたしてるからですよ、それは。早く吐き出してこの混沌から自由な自分に生まれ変わって、吐き出した吐瀉物がどんなものかなんて気にしたくないし、それでばずるとかばずらないとか算段している自分なんて嫌でそれだけで書くのをやめたい気持ちにもなるんだけど、やっぱり僕はそれよりもやるべきこと、救わなきゃいけない世界ってのがあるんだ。すぐに済ませるからさ! 

 

別に好きとかじゃないし恋してたとか全然そうじゃないし、じゃなかったわけ。別にだってただ家に来るって言うから、しかも私彼氏と別れて4か月とかだったし、その時ひと月くらいずっとラインするくらい仲良しで、一緒にいて楽しくて、超キレキレの、会話のテンポが僕と合致しちゃうような逸材で。しかも私のお絵描き帳、誰にも見せたことない落書きを覗いてきて、それに絵うまいねって言ってくれるものだからさ。いーじゃん、別に!楽しいことしたくて、みんなに内緒で悪いことして見えないとこでニシニシ笑ってたかっただけだったんだけど。

誘い方が下手だとか笑われて、戸惑われたけど結局乗ってくれたし。楽しかったじゃん。なのに! 

 

どうして1週間たった途端に急に冷たくなるんだ。数日前まで電話で破廉恥なジョークとか楽しんでたのに。突然すぎて意味不明過ぎて、とりあえずググってウェブのフォーラムを熟読すること小一時間。陳腐な一般化から派生する理論に辟易しながらもシンプルでどうしようもないってくらいの答え。ホルモンのせいだー!つって。オキシトシンが性交でリリースされると、テストステロン水準が低下する男性は相手女性を求める気持ちが抑制されてしまうんだって。なるほど。だけどそれってセックスしてから1週間後もそうなの?ってことはもしかして彼久しぶりに彼女さんとセックスでもしたのかな?でもあのとき電話で私のことかわいいって言ってたし、そのときはやる気だったのにやっぱ急に電源オフになっちゃったのはなぜ?テストステロンとかそんな単純な生理学的現象に還元するには親密過ぎたし背景にも深い造詣があったし状況についてコミュニケーションもうまくいっていたつもりだったからやっぱり説明になってないかも!しかもただセックスが嫌になったんじゃなくてそれが嫌になったってことも、なぜ嫌になったってことも説明したがらないってどういう状況?シンプルに言って突然避けられてるじゃん…!これから楽しくなると思っていたのに…。 

 

思い出したのは僕が魅力的だという言葉と「近すぎる」ってこと。ってか冷静に彼女いるわけだし、こういうこと言ってたってことは、やっぱりそういうカジュアルな関係になるにも心理的に親密過ぎたってわけ?だけどそれでコミュニケーションを実質的に断絶させるほどしなきゃいけないって…。そういう関係だけをやめるんじゃなくて、友達関係すら希薄にしてしまうなんて。何年も付き合っていて同棲もしている彼女さんとの日常とか平穏とかを守るために超仲良しの友達だったはずの私はあっけなく不要なものとして切り捨てられてしまったってこと?築き上げた共通の好みとか将来の夢とか「応援するよ!」とかは、結局封建的で、ゆえに社会的ステータスを安定的にもしてくれるたった一人との関係性が壊れるほんの少しのリスクとの天秤にかけられてあっけなく天秤が傾くみたいに崩壊したってことなのかな。これもはや完全被害妄想っぽいけど? 

 

てかなんか、セックスとか無くても、なんかみんな彼女できたら僕とあんまり遊んでくれなくなっちゃうよなあって思い出す。それはもしかしたら自分も彼氏いたときは同じような感じだったかもしれないし、よくわからないけど、恋人関係があるとそれがなんだか重要過ぎて、恋人がいるって状態が一番安全を与えてくれるもので、それより外部のものはおまけのもので、一番大事なのは30までに結婚すること!それが達成できなくなるくらいなら他のものは捨ててもよくて、それ以外は所詮代替可能でしかないってことか。そうやって同じような社会的地位のある上級のお仲間さんたちと馴れ合ってる平穏さえあれば、僕のことなんてどうでもいいんだ!独身で未だに両親の扶養下にある下賤の民は道化みたいに使って危うくなったらポイなんだね!

 

 ほんっとうに悲しく悲しくて悲しすぎてだいすきな友達いなくなっちゃって悲しすぎて。それだけ軽視されてたってことが悲しいし、恋人がいる人たち全員が、火遊びして楽しくなると思ってた僕の判断の甘さを嘲笑っているかのよう。「僕たちの平穏で快適な生活を脅かすからだよ…。馬鹿なやつめ。」 

 

だけどこの感情の裏側に。強い感情には常に表と裏があって、まあ端的に言って不幸をバネにして幸せになるっていうんののプロセスのことなんだけど。だからこの悲哀、自己憐憫にも裏側には燃え上がる憎しみの炎がある。私のことを代替可能だとみなされるのなら代替不可能になるくらい私との交流がステータスを与えうるものになって欲しい。恋人とかいても私との友情がかけがえのないものであって欲しい。超面白い存在になって魅力をまき散らすサークルクラッシャーになりたい。恋人とか結婚とか安全圏で足蹴にしてくる奴ら全員よりずっと幸せになりたい。全員がぶっ倒れるくらい。全部殺したい!所詮私は無駄に解放されて自由で、物質主義で合理的な女である。私は魔女であり、狂人であり、娼婦である!妻とか母とかそんな称号を付与されて大人しく生きていくことが人生のゴールなんかじゃない!だから黒魔術とかヒステリーとかフェラチオのパワーで人畜有害に!危険そのものとして!全部を破壊して、恐怖の底に叩き込んでやるのだ! 

 

あと2月で25歳。まだ学生で、友達いない私は、この8畳間のワンルームから革命を起こして世界を再構築してする。お前ら全員の安寧など無意味であるということを思い知らせてやる!なんて気分。実際はすぐ忘れちゃうけどさ。はーあ、寝よ。

 

おばあちゃんは生命でいきいきしている

おばあちゃんはしわしわである。

おばあちゃんの手指はしわしわである。肌はくすんでところどころ茶色の斑がある。形は全体的にずんぐりむっくりしてて、握ると固くてぱさぱさしているものの、手の脂による光沢感と滑らかさ、ぶよぶよした肉の感触、ベッドシーツを撫でるときみたいにしゃかしゃか動く皮膚、骨の弾力、手のひらに深く刻まれたしわなど、生気であふれている。少し冷たいかもしれない。

さらに驚くべきことに、動き出すとおばあちゃんの手は活力溢れる様相を見せる。お茶を淹れる手つき。どっしりとした手で電気ケトルを持ち上げ、ゆっくりとしているが断固として流しに持っていき、水を満たす。重たいものを持ち上げる時のため息、呼吸。ケトルのスイッチは人差し指でタップするように恐る恐る押す、それはきっとおばあちゃんのお茶目で可愛い性格を表している。いつも記憶力が衰えてきたと漏らす割に、お茶の缶、匙の位置はしっかり覚えている。積み重ねてきたものの大きさは伊達ではない。昔のことならその時一瞬流行った芸能人とか、昔のちょっとした事件で現代にもその残骸・爪痕を残しているようなニュースとか、若い者どもがどうやっても手の届かないような情報を覚えている。昔のもっと混沌としていて騒々しい、地域とか、親族とかのコミュニティに束縛されていて、裏道に抜け道、何でも利用して、周りに利用されつつ、それに気づかずに、それでも周りと関わって、労働して、消費して生き抜いてきた歴史。伝説的だ。これからも強く図太く生き抜いていくおばあちゃんなのだ。

旅行てそんなに楽しいですか?

お題「行きたい場所」

 

 

限りない日常のルーティンの無限ループの中にいるとすぐにどこか遠くへ行きたいと感じることがある。社会に何の貢献もしていない暇な学生並で申し訳ないが、人生で長期休暇があれば、1回くらいは旅行に行っていたものだ。特に国外旅行が好きで、割と(割と)色んなところへ行ったものだ。気の置けない友人たちやら家族やらと一緒で楽しかったと記憶してはいるものの、やたら散財した割にはそれに値するだけの経験ができたかどうか疑問に思うことがある。

3年前の3月、私は友人2人とクアラルンプールにある巨大ショッピングモール「パビリオン」のスターバックスにかれこれ2時間も座っていた。去年行ったバンコクでは、女子旅♡みたいなガイドブックを見ながらひたすら何か食べたり買ったりするばかりだった。香港でもそんな感じだった。中学生でオーストラリアへ家族旅行へ行ったときも、オーストラリアの動物を見る機会はたくさんあったものの、自分も親も動物のことについて何か知識が得られたというわけでも無かった。それに多くの旅行で現地の人と何か密接な交流があるわけでもなかったと思う。

結局海外に行っても、日本のガイドブック、観光ガイドサイトとかを見て何するか決めるし、日本での習慣まんまで行動するので日本に滞在してなんか楽しいことするのとそんなに変わらないような気がしてしまうのだ。今時タイ料理屋さんとか、増えてるし。友人のインスタのベネチアの写真を見てなんかディズニーランドにこんなんあったなと思ってしまった。つまりテーマパークで異国風な雰囲気だけ得るのと変わらない気がしてしまう。実際古い町並みとかが保存されている都市とかは観光による利益が重要なインセンティブなわけなのでテーマパークみたいなもんだし。

まあ海外行ってうまい飯食ってMade in Chinaのおみやげ買ってインスタ映えな写真が撮れればそれでいいという人もいるであろうが、異文化経験を割と心底楽しむインテリジェントで高貴なすばらしいわたくし(ドヤァ)には物足りないということに気が付いたのだ。あるいは、そんなもののためならそもそも海外旅行なんて行かなくてよくない?ってことである。

それに、そういうノリで旅行に行く人がたくさんだと現地の文化や建造物が茶番と化すのみならず地元の人々の生活に悪影響だ。京都の祇園とかに住んでる人ならわかるだろう。観光客が多すぎてバスに死ぬほど並ぶ(らしい)のだ。そうやって大量の人が押し寄せるので交通機関がキャパオーバーとか、富士山でごみがすごいとかみたいな問題があるのでいくら地元経済が潤うとは言えこれでは生活できない。同様の問題はベネチアバルセロナでも起こっており、現地都市では観光客を減らす試みがなされているくらいだ。これではただお金が回ってるだけであんまり誰も得していないような気がする。

でも楽しい旅行も中にはある。オーストラリア住んでたのも旅行っちゃ旅行だったわけだが現地民とかの習慣とかを取り入れたりするのはとても面白かった。クラブとか、そういうね(ウェイ)。そんときイギリス人の友達といった旅行も景色がきれいだったとかはあるけどそれ以上に彼らがどんなふうに旅行するのかとか、自分の国ではこうだよ!みたいな文化の違いの話とかをするのがとても楽しかった。現地の人に囲まれて、違う当たり前のスタンダードに触れるのが楽しかった。それこそが旅行の醍醐味だと思いませんか??

だから、あまり観光地として有名じゃないところで、知らない人と出会って、現地の習慣を体験して、歴史を学んで、夜も更けてきたときに歌を歌おう。それならお金で買えない貴重な経験ができるような気がするのだ。

ってなわけで今行きたい場所はカラハリ砂漠です。アフリカ大陸の南にあるやつ。良くないですか??

融けない雪のなか

今週のお題「雪」

関東平野に住んでいると、たいていの雪はいつか融けるものと認識することになるが、融けない雪について考えたことはあるだろうか。白くて冷たくて、ときには柔らかく、ときには硬い物体が、常に周りにある環境のことを考えたことはあるだろうか。それは土のように地面に横たわっており、街灯よりもそこらじゅうにあって、空気を冷たく突き刺し、かつ包み込むように存在しているのだ。氷との間を行ったり来たりしているやつとか、まだふわふわ出来立てのやつもあるから、普通に歩いているとつるつるずぶずぶと滑るのだ。寒いところが好きなやつらが周りにいる。ペンギンとか、シロクマとか。そやつらは雪に完全に適合しているから、私がいっぱい転んでいる横で、涼しい顔をして歩いているのだ。ペンギンの群れなんかは結構強気で友好的だから、私がいても逃げ出したりはしないで、しりもちをついている私を見て笑っている。ペンギンの言葉がわからないけど笑っているのはわかるものだ。悔しくなって立ち上がろうとしてまた転んで、それを見て余計に笑うのだ。でも、私は失敗から学べるから、どうすればいいかわかる。ペンギンのよちよち歩きは非常にかわいらしく正直言ってちょっとだけ面白いけど、それが彼らのうまく歩ける秘訣だと私は知っている。それに今面白いのはつるつる転げている私のほうだ。こうかな?真似して歩いてみる。普段の大股歩きじゃなくて半歩ずつ細かく足を前後に動かしてみる。普段と違うという点でとても面白いけれど、融けない雪の中ではこれが常識。私もこれから、だんだん融けない雪に適合していく。失敗を繰り返して、みんなに笑われながら。よちよちと前に歩いていく。

 

飛行機の詩

生まれてこの方うんじゅっかい目の空の旅

到着先での冒険にわくわくしている

遅れたらすべてが死ぬから

早めに乗った朝一の特急列車

早めにつきすぎて何もすることがない

オンラインチェックインってどうやればいんだっけ

おなかがすいたけどなんでドーナツに500円も払わなければならないの

でもこんなこともあろうかと

持ってきたんだグレートギャッツビー

移動時間を生産的に

使う私は飛行機マスター

文字を見るとめまいがするけど

本ってブルーライト以上に目に悪い光線出てる気がするよね

やっと搭乗時間だ

重たい荷物を持って列に並ぶ

遅い 進まない 遅い

そーりーとつぶやきながら狭い通路をかき分けて

たどり着いた窓際の席

小さな景色に寄りかかりながら

愛しのスマートフォンにさよならを言った

窮屈な筒に閉じ込められて

離陸の瞬間を待つ

コンクリートの大地を発って

深緑の上を飛ぶは空のエンタテイメント

明かりが落ちる

轟音と振動が

子供が隣の席で泣き出した

どうして私の近くにはいつも幼児が座っているの

耳が圧迫される感じがする

研究開発により培った独自の喉の動きのテクニックにより鼓膜を解放する

ギャッツビーに目を落とす

わからない英単語がある

グーグルできない

意識が遠のく

首の痛みで目を覚ます

トイレに行きたいってときに乱気流

シートベルトサインが点灯する

閉じ込められた尿意はもうどこへも行かない

体をストレッチする

エコノミークラス症候群で死んだ人の話を思い出す

乱気流から我らはどうやら生き残ったらしい

映画を見ている人の膝の上を飛び越えていく

友達とやったテトリスバトルを思い出す

トイレを流すときのあのすごい勢いにおびえながらボタンを押す

絶対買わない課金機内飲食サービスが通り過ぎるのを待つ

今現地時刻は何時だろうか

みんなは何をしているかな

スマホの写真をスクロールしているうちに

また瞼が重くなってきた

着陸のときには

また赤ちゃんが泣いている

私はもしかしたら死ぬのかもしれない

密閉された箱から出たい気持ちを抑えるために

また深呼吸をした

ベルト着用サインが消える前にベルトを外す音がする

エンジンが止まる

早く外に出たい

出たい出たい出たい出たい

ドアが開かない

列が進まない

進まない 遅い 進まない

重たい荷物をなんとか取り出して

狭い通路を出口へ向かって進んでいく

赤ん坊はもう泣き止んでいた

外は悪くない天気だ

少しばかり暖かいかもしれない

どんな旅になるのだろうか

今度飛行機に乗るときの自分は

どんなふうになっているのかな

どうした

 

そうだ私は留学ブログを書くと決めたはずである。

週1くらいのペースで更新しようと

そう決めた

 

 

 

ここで回想モードに入って~、なんかオーストラリアの奥地を旅してる間に行方不明になってじゃんぐるの中をぐるぐる狩猟採集して生き残った私の素晴らしい旅の話を始めたかったんですけど生憎、そんなことは現実に起こっていなかったわけです。

じゃあなんかオーストラリアにしかいないミナミオーストラリアコオロギに刺されてヤバイ感染症を発症して入院していたのかといえばそういうわけでもなく、うーん私忙しかったのかなあ、、、

忙しいって言ったって普通に大学行ったりしてただけだし60%くらいのブログ書くキャパはあって、あとはなんか決意とか覚悟、責任感、罪悪感とか浮遊感とか浮遊霊とかいろんなアレが足りなかったなって。大学のお勉強とか人間関係とかをものすごく優先する言い訳の火力がこっちにコミットする水力に負けてたってことだと思います。

実際最近期末テストやっと終わったし。

うん、書きたいことならあるっちゃあるし、頑張って更新していこうかと思いますので読んでくれてる方が万が一いたとしたらよろしくお願いします!(いなかったら浮遊霊にお話し聞いてもらうのでさみしくない!)

はじまりのどあー

それなりに大きい箱の中にいた。6~8畳間くらいで、壁はギリシャを思わせる…いやモロッコか?それともメルボルンそのものなのか??一体何なんだこの壁の色は。

 

あ、自己紹介が遅れました。私はばんどういるかフロムジャパェアーン。趣味はサーフィンで夜はクラブで踊り明かすわよ~~~。うん。このプロフィールでいけば、このパリピな日焼けしてるカンガルーに負けじとマッチョでリンゴとステーキを交互にかじってる人が人気者なこの場所でも、きっと友達が500人できる。

ヨシッ、と何度も脳内でシミュレーションをしながら始まった私のメルボルンでの生活。しかしいきなり私は危機に瀕していた。そう、私はこのモロッコ風ぽい部屋に閉じ込められてしまったのだ。正確には、心理的に外に出られない状況に陥ってしまった。

 

私は裸のマットレスに寝転がり、むき出しの蛍光灯に照らされていた。(私は服を着ていました。)

スマホで時刻を確認すると、13時過ぎであった。ということは3時間ほど眠っていたということになる。今朝メルボルンに上陸した私は、直感の力で現地SIMカードを入手し滞在先学生アパートの管理団体に到着の連絡をした。それからこの新居へ命からがら多少遅刻しながら辿り着き、管理人の案内を受けたのち、自分の部屋の扉を閉め、スーツケースも開かないままに眠りに落ちてしまったのであった。さて、起きて荷物を整理して、山積みになった数々の重要な事務業務を消化するために時間と体力を投入しなくては。しかしその前にシャワーが浴びたい。

 

私がいつも乗ってる自家用ジェット💓と違い、一般人用の旅客機にはシャワーが付いていない。24時間弱ものフライトに耐えた私は全身が脂で漲っていた。何か行動するにしてもこんなギトギト状態では「不快」がついてまわる。もしかすると不健康でもある。毛穴が息苦しそうにもがいているのが感じる。さらに重大なことに、もし万が一、運命のいたずら、というか必然の結果としてフラットメイトなどというものを遭遇してしまった場合、不潔おばけ状態では到底友達なぞにはなれずに塩を投げつけられそうですらある。どの文化圏の方かは存じ上げないが、きっと地中海とかから来た人ならオリーブオイルをこれでもかと振りかけてくるし、インドの方ならターメリックで目潰しを食らわせてきそうである。日本人だったら問答無用で斬り捨てるであろう。それは嫌だ。よし、シャワーを浴びよう。

 

ベッドから身を起こしたとき、外から音が聞こえた。それは完全なる人の声で、その声は完全に英語言語を話していた。”Heyyyyyyyyyyy!!!!”"Yoooooo!""&%dasiu%$1HJK$u367&!!!!"

私の自室は、共有のリビング、キッチンがあるのと同じ階に位置していて、外の音が漏れ聞こえてくるようである。

 

おおこれは、と私は思った。友達を作るチャンスではないか!そうだ今こそこの部屋を飛び出して、その脂身すらも強さにして飛躍するときだ!そのためにお菓子も持って来たし自己紹介とか掴みの文句も考えたんだし!さあbefriend with that guyyyys!!!!! Yeah!

 

すなわち、人は自分が思うほど自分のことを制御することなんてできなくて、もし自分が理性的判断ではそうしたほうがいいと思っていたとしても、実際に自分がそのある特定の状況において、気持ちの問題として”そうする気”にならなければ行動は起こらないのである。つまり私はこの状況においてドアを開けることを躊躇していた。

 

躊躇どころの話ではない。完全に消極的だった。100,000°くらい後ろ向きに検討していた。私を支配したのは緊張、焦り、そして恐怖感情であった。怖い。

 

それに、この場所にいさえすれば安全であるという気にもなっていた。すなわちこの部屋は安全地帯で、私はそれに甘えて依存状態に陥っていた。まさか数時間前に出会ったばかりの部屋に依存する気持ちが芽生えるとは。これがさらに”部屋から出る”という行為を困難にしていた。

 

ただ、実用的、合理的側面として、別に今ドアを開ける必要はないというのもあった。さらに、たとえ外で話しているお友達(候補)たちと顔を合わせたところで、向こうも突然の訪問者に戸惑うはずである。(そんで塩投げられる。)

 

悶々と考えているうちに、今度は音楽が聞こえた。多くの人々が訪れ、英語で何やら話し、そして去って行った。

 

友の声を思い出していた。そう、私は大学でたくさんの大切な友達ができたということに、出国する前に気が付いた。「えーいるかちゃんいっちゃうの!?さみしい~~~~」

「いるかちゃんだったら絶対たくさん友達できるよ!」

メルボルンいいな~。帰ったらたくさんお話聞かせてね!」

「白人のイケメン彼氏作ってきてよ!笑」

「写真フェイスブックにあげてね!待ってる!」

「応援してるよ!」

「頑張ってね!」

 

 

 

「頑張ってね!」

 

 

 

 

気が付いたら2度寝していたようである。時刻は16:30。自分が情けない気持ちは目を開けた後も消えなくて、全身に纏わりつく不快さは増していた。風呂に入りたすぎる。一方外からは口笛と、なにやら料理をしているらしい雑音が聞こえていた。一人でノコノコやってきた敵が、どうやら外にいるらしい。

 

勇気を出すのにはちょっとしたコツがいる。まずはその行為がもたらす悪い結末と良い結末を充分に検討する。そして最悪の結末に自ら、またはほかの関係者が耐えうるうえに、そのリスクを上回る利益を見出したら実行という決断を下す。あとはその決断を信じて、力を抜いて、すべての恐怖を忘れ、その行為を遂行することに全神経を注ぐのである。

 

ここにおいて私の理性は、ゴーのジャッジメントを下した。

 

 

私はドアの前に立ち、深呼吸をして、小馬鹿にしたように首を傾げた。

 

 

「頑張ってね」

 

 

笑顔の友達(になれそう!)が目に映った。

 

 

ハーイ!

 

 

扉は開き、目が離せないような目まぐるしく色彩豊かな日々が、きっとこれからはじまる。